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| ▲四稜郭 |
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| ▲四稜郭説明 |
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| ▲土方歳三最後の地にある碑 |
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なんといっても今は桜の名所となっている五稜郭から。
函館は、江戸時代の終わり頃ペリーの来航時、下田とともに開港された日本最初の貿易港です。当時、徳川幕府は外国人との交渉などの為、港の近くに箱館奉行所を作りました。しかし、外国との戦争になった時、軍艦からの攻撃に備えて、海から離れた場所にこれを移しました。
石垣と塀で囲まれ、上から見ると星の形をしています。これが「五つのとんがりのある城―五稜郭」と呼ばれる所以です。
この星形は守りやすく外から攻め難い形の城ですが、私たちはさらに守りを固めるため、ここから少し離れた地に明治二年四月に、二週間ほどで四隅に砲座を設け、蝶を広げたような形の四稜郭を急造しました。しかし使うこともなく、今は緑豊かな公園になっています。
五稜郭は展望台となり観光客が大勢訪れます。ここには私の写真を使ったトレーやグラスなどのお土産が置いてあってちょっと恥ずかしいですね。写真は明治元年に写真家のパイオニア田本研造氏が撮影してくれたものの一つです。
また、毎年五月に行われる五稜郭祭りでは、「ミスター土方コンテスト」があります。自分で言うのもなんですが、当時、私は結構モテていました。祇園の芸妓、君菊や小楽、懐かしいなぁ。まあ今で言うアイドルでしょうか。
さて、私たちはよく戦いました。最後の地となった「一本木」(現・若松町)には一九五八年に若松小学校同窓会有志によって建てられた碑があり、私の戒名(歳進院殿誠山義豊大居士)と写真が飾られています。線香も絶えることなく、今の芸妓たち…いや、なんと言うのかな、え〜と、ああ、ギャル。そう、ギャルたちが花をもってお参りをしてくれています。
私たちは賊軍といわれ、遺体は野ざらしにされていました。しかし賊軍になるつもりなどなく、ただ、新しい日本を目指して戦っただけなのです。その志に義を感じてくれた、江戸から来た柳川熊吉という請負屋が部下に命じ、一夜にして私たち八百人を函館山のふもとに葬ってくれました。このことは碧血碑の写真とともに説明があります。
この碧血碑は立待岬から奥に入ったところで、近くの墓所にはあの石川啄木の墓もあります。
これで私たちの戦いの跡地めぐりは終わりです。では、ここで函館のオススメをご紹介しましょう。え、どうして知っているかって?出口調査ですよ。出口調査。私はここで失礼しますが、ゆっくり温泉につかり疲れを癒し、美味しいお寿司を食べていってください。
最後に辞世の歌を。
たとい身は蝦夷の島根に朽るとも魂は東の君やまもらん
漢字館Vol.10 掲載
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