《お茶を飲みながら TOP

 ピアノと735円
もう弾かなくなってから、何年が経つのだろうか。
欲しくて欲しくて、小学5年生の頃に無理を言って買ってもらったのだが、高校受験とともに習うのを止めてしまった。
そのあとは、お決まりのように、部屋のすみで物をのせられる台となったピアノ。
最近は、時折、姪がきた時に弾いていたが、わたし自身は仕事の忙しさと、休日は他のことで留守がちのため、それは、その日きた手紙の置き場となっている。

昔はピアノを習う人も多かった。
その後エレクトーンブームがきて、今は習い事も多種にわたったため、ピアノのお稽古に通う人も少なくなった。
しかしピアノやクラシックが、コミックやテレビなどにより、またブームになってきた。
わたしも弾いてみようという気になってきた。
しかし何年も調律をしていない。
そのうえ鍵盤にも艶がなくなってきている。
そうだ、まずは手始めにピアノを磨こう。
ピアノ教師をしている友人に、ピアノを磨く薬剤のことを尋ねると、自分が持っているのを分けてくれると言った。
しかし、お互いに忙しいので、会って手渡してもらう日が合わない。
友人は、わざわざ宅配便で、カステラとともに送ってくれた。
送られてきた中には、全体を磨く薬剤と、鍵盤を磨くのとの二種類が入っていた。
一つは彼女が持っていたので、そのまま頂いたが、もう一つはわざわざ735円で購入してきてくれたのだ。
「7月頃になると仕事が一段落するの。そうしたらお会いしましょう。735円はそれまで貸しておくわ」
と電話の向こうで彼女は言った。

久しぶりに磨かれたピアノの黒い輝きの中に、ピアノに夢中だった頃のわたしがいた。
そっと鍵盤にふれてみる。
暗譜で弾けるただ一つの曲、モーツァルトのソナタ第二楽章。
まだまだ覚えている。
しかし指はロボットのようなぎこちない動きだ。
また練習曲から始めようか。
指を動かすのはアンチエイジングになるというし。
昔、何度も練習をかさねた、ショパンの夜想曲、リストのラ・カンパネラ、そしてポピュラーの数々。
かつて弾けた曲をまた、指が思い出すようになるまで、ピアノに向かう時間を作ろう。
そして、借りていた735円を返す、という名目で友人と会う約束を実現させ、ゆっくりとお茶を飲みながら、二人でピアノの話などをしよう。
漢字館Vol.40掲載