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 歌舞伎の雑学
歌舞伎の日
11月21日は歌舞伎の日。明治22年(1889年)の11月21日、東京木挽町に歌舞伎座が開場したのを記念して制定されました。
歌舞伎ってよくわからないからと敬遠する人も多いと思いますが、歌舞伎は伝統芸能である前に、長い間、人々の娯楽の一つとして楽しまれてきたことを考えれば、難しいことはありません。

歌舞伎の歴史
出雲の阿国が始めた念仏踊りが最初と言われていますが、これにはお囃子や三味線の伴奏はなく、笛・太鼓に合わせて踊るだけの単純なものでした。
しだいに念仏踊りは評判をとるようになり、京都の四条河原(北野天満宮境内の説も)で興行を始めるようになりました。(1603年)
そのため、歌舞伎発祥の地として知られている四条河原町南座横には、阿国歌舞伎発祥の地の碑もあります。
阿国は男装(武家の格好)をして、茶屋の女と戯れたりする斬新な振り付けを考え、それが「傾く」(かぶく=常識離れ)女として大好評を得ました。
この「かぶく」から歌舞伎の名称がうまれたとされています。
阿国が評判になると、四条河原町付近にあった遊郭は、競って遊女達に男装させ、阿国一座の真似をした踊りで遊郭の客引きをしました。しかし風紀上の問題として、この「女歌舞伎」はすぐに禁止されました。
その次に生まれたのは「若衆歌舞伎」ですが、元服前の美少年たちがやはり同様に客引きをしたため、これもたちまち禁止となりました。
その後は男性の役者だけが演じる「野郎歌舞伎」が登場し、現在の歌舞伎のルーツとなりました。

江戸でも京の歌舞伎に刺激されて劇場が生まれます。その中でも正式に官許をもらって営業していたのは、中村座(猿若座)、市村座(村山座)、森田座(後の守田座)、山村座の四座でした。
しかし、山村座は「絵島生島事件」で官許を取り消され廃業となり、残る三つが江戸三座として明治初期まで興行を続けました。
やがて明治維新が起こり、文明開化の中で、歌舞伎の荒唐無稽な筋書きなどを、時代に合わせたものにしようというジャーナリストの福地源一郎を中心として「演劇改良運動」が起こりました。岩倉使節団に随行した福地は、欧米演劇の水準の高さを痛感し、理想的な演劇を実現させるため、新劇場建設に乗り出し、「歌舞伎座」を開場したのです。
当時、劇場の名前は市村座・新富座などのように座元の名前や地名をつけるのが普通でした。しかし歌舞伎座は、演劇のジャンルの名前をつけたこと自体が、大変新しい発想の劇場だったのです。
また平成に入ってからも、中村勘九郎丈(現十八代中村勘三郎)が、浅草やニューヨークにまで、江戸を髣髴とさせる芝居小屋を再現したのは記憶に新しいところです。

今はイヤホンガイドというサービスがあり、演目の内容説明から役者の紹介まで、舞台を見ながら知ることができます。普通の時代劇を観るつもりで、気軽に観劇を楽しんではいかがでしょうか。

顔見世興行
江戸の座元と所属役者との契約は1年間で、毎年10月に入れ替えがありました。そして11月にはそのお披露目として「顔見世」を行い、演目も華やかなものを選び、劇場も美しく飾り立てます。しかし江戸の末期にはそれもなくなり、現在では「顔見世」とは豪華顔合わせとしての意味合いとなり、名古屋御園座の10月公演、東京歌舞伎座の11月公演、最後に京都南座の12月公演と続きます。
ではなぜ、顔見世」が「11月」と決められたのでしょうか?
これには諸説ありますが、なるほどと思わせる商売上の知恵もあったようです。
旧暦で11月といえばもう真冬で暖房もろくにない時代。その上師走から正月を控え、出費のかさむことも多く芝居どころではなく、客足が遠のくのは当たり前。
そこで「顔見世は芝居のお正月」と銘打って、目先の違う興行をしたところ、新らしいもの好きの江戸っ子にうけて大当たりとなったとも言われています。
この顔見世興行は、京都南座のものが最も歴史が古く、劇場正面に出演する俳優名が書かれた「まねき」と呼ばれる木の看板が掲げられます。「まねき」は隅から隅まで観客で埋まるようにとの願いから、役者の名前を隙間の少ない勘亭流と云う独特の書体で、つや出しのために清酒を混ぜた墨で、一気に書き上げられてあります。
これは京都の師走の風物詩としても有名で、俳句の季語としても使われ、またテレビのニュースとしても紹介されます。

正月を前にした師走のひとときを、歌舞伎で楽しむのも一興ではないでしょうか。
漢字館Vol.42 掲載